ヨーロッパに伝わった茶
17世紀はじめ海上貿易でアジアに進出していたオランダが中国から買い付け本国に送りドイツ、フランス、イギリスへも不発酵の緑茶を売るようになりヨーロッパに広めました。イギリスで最初にお茶が売られた1657年当時は、まだ”万病に効く東洋の秘薬”としてでした。1662年、チャールズ2世のもとに嫁いだポルトガルの王女キャサリンが、中国の茶と当時は銀と同等の価値があるほど貴重な砂糖を大量に持参し、宮廷に喫茶の習慣をもたらしました。貴重なお茶に貴重な砂糖を入れて飲むという贅沢な習慣は、次第にイギリスの貴族社会にひろまっていきます。
イギリスは、中国福建省アモイから直接お茶を輸入するようになります。
このお茶が半発酵茶の『ボヘアティー武夷茶』でした。紅茶に似て茶葉の色が黒く『Black Tea ブラックティー』と呼ばれ、それまでの緑茶から半発酵のお茶が人気になります。お茶よりも先にコーヒーが飲まれていたイギリスには、コーヒーハウスがありました。このコーヒーハウスでお茶が飲まれるようになり、健康に良い飲み物として一般にも普及していきます。こうしてイギリスは中国から大量のお茶を輸入するようになっていきます。
イギリスは、茶の代金を『銀』で支払っていました。しかし多額の銀を払いすぎると財政が危うくなるため植民地インドで作らせたアヘンで支払うようになり、中国国内ではアヘンが流通しこのことがアヘン戦争につながります。1773年には、アメリカ独立戦争のきっかけとなるボストンティーパーティー事件が起こります。イギリスの財政難をカバーするために重税がかけられた紅茶を押し付けられたアメリカ植民地の人々が『Tea Party お茶の党』を結成しボストンに停泊する東インド会社の船を襲撃し、342個の茶箱を海に投げ捨てるという事件です。17世紀後半から19世紀初頭までイギリス東インド会社はお茶の輸入を独占し、その利益が大英帝国繁栄の基礎を築いたとさえいわれています。
1823年、イギリスの冒険家ロバート・ブルースがインドのアッサム地方で自生の茶樹を発見。それは、現在のアッサム種のことで 中国種とは別種であることが確認されました。1845年には、イギリス人のフォーチュンによって、緑茶と紅茶は製法が違うだけで原料は同じ茶樹であることが解明されました。こうして中国種とアッサム種との交配が進み当時イギリスの植民地であったインドやセイロンで紅茶の栽培がはじまったのです。
お茶は中国から世界各地へと伝わっていきました。海路で伝わった茶は福建省の厦門語『TAY』が語源となって派生し、イギリス-tea、フランス-the、ドイツ-tee、イタリア-te、オランダ-thee、スリランカ-thea などとなっています。一方、広東省を起点として主に陸路を伝わったものは広東語『CYA』から派生し、インド-cha、チベット-ja、ペルシャ-cha、トルコ-chay、ロシア-chai、日本-chaとなっています。 |