お茶のはじまりは中国伝説〜Tea Legendいまや世界中で飲まれているお茶。紅茶、ウーロン茶、緑茶などそのすべての生まれ故郷は中国です。中国では茶葉を発酵させない緑茶が不老長寿の霊薬として飲まれていたようです。中国の伝説によれば紀元前2737年に農耕の神である炎帝神農が木陰でお湯を飲もうとしたところ、偶然風に吹かれたお茶の葉が舞い落ち、そのすばらしい香りと味わいに魅了されたと伝えられています。 お茶の来た道〜Tea Roadお茶のはじまりは、中国雲南省の一番南、ラオス国境に近い「シーサンパンナ」といわれています。そこには世界最古の『茶樹王』という樹齢800年の樹が現存しています。山奥で生まれたお茶は、少数民族から平地の漢民族に伝わり四川省、揚子江にそって東へ広まります。7、8世紀の唐の時代、中国全土でお茶が飲まれるようになった頃、陸羽という文人によって『茶経』といういわばお茶の書が著されました。この世界最古の茶の専門書『茶経』によるとその当時のお茶は牛角茶(番茶)、散茶(葉茶)、末茶(粉茶)、餅茶(蒸して臼でついて固めた固形茶)などであったようです。このような団茶(固形茶)を削り、煎じ出し飲んでいたようです。日本にもちょうどこの頃(奈良時代)に遣唐使が団茶を持ち帰っています。明の時代には葉茶を煎じて飲む茶が中心になりました。これは今の緑茶につながるものです。こうしてお茶は陸路ではシルクロードをとおりモンゴル、チベット、ペルシャからロシアまで16世紀には伝わっていたそうです。 |
ヨーロッパに伝わった茶東洋の秘薬17世紀はじめ海上貿易でアジアに進出していたオランダが中国から買い付け本国に送りドイツ、フランス、イギリスへも不発酵の緑茶を売るようになりヨーロッパに広めました。イギリスで最初にお茶が売られた1657年当時は、まだ”万病に効く東洋の秘薬”としてでした。1662年、チャールズ2世のもとに嫁いだポルトガルの王女キャサリンが、中国の茶と当時は銀と同等の価値があるほど貴重な砂糖を大量に持参し、宮廷に喫茶の習慣をもたらしました。貴重なお茶に貴重な砂糖を入れて飲むという贅沢な習慣は、次第にイギリスの貴族社会にひろまっていきます。 イギリスの紅茶文化イギリスは、中国福建省アモイから直接お茶を輸入するようになります。 茶を巡る歴史的事件イギリスは、茶の代金を『銀』で支払っていました。しかし多額の銀を払いすぎると財政が危うくなるため植民地インドで作らせたアヘンで支払うようになり、中国国内ではアヘンが流通しこのことがアヘン戦争につながります。1773年には、アメリカ独立戦争のきっかけとなるボストンティーパーティー事件が起こります。イギリスの財政難をカバーするために重税がかけられた紅茶を押し付けられたアメリカ植民地の人々が『Tea Party お茶の党』を結成しボストンに停泊する東インド会社の船を襲撃し、342個の茶箱を海に投げ捨てるという事件です。17世紀後半から19世紀初頭までイギリス東インド会社はお茶の輸入を独占し、その利益が大英帝国繁栄の基礎を築いたとさえいわれています。 種の発見1823年、イギリスの冒険家ロバート・ブルースがインドのアッサム地方で自生の茶樹を発見。それは、現在のアッサム種のことで 中国種とは別種であることが確認されました。1845年には、イギリス人のフォーチュンによって、緑茶と紅茶は製法が違うだけで原料は同じ茶樹であることが解明されました。こうして中国種とアッサム種との交配が進み当時イギリスの植民地であったインドやセイロンで紅茶の栽培がはじまったのです。 Tea or 茶お茶は中国から世界各地へと伝わっていきました。海路で伝わった茶は福建省の厦門語『TAY』が語源となって派生し、イギリス-tea、フランス-the、ドイツ-tee、イタリア-te、オランダ-thee、スリランカ-thea などとなっています。一方、広東省を起点として主に陸路を伝わったものは広東語『CYA』から派生し、インド-cha、チベット-ja、ペルシャ-cha、トルコ-chay、ロシア-chai、日本-chaとなっています。 |
セイロンティーのはじまり気候と風土が育むセイロンティーの歴史は現在のスリランカがイギリスの植民地であった150年ほど前にさかのぼります。コーヒーが島の主要産品で、勇敢な英国人がコーヒー農園で新生活を始めるべく海を渡りました。しかしコーヒーはセイロンでの成功が運命づけられてはいませんでした。1860年代末期にHemileia Vostatrixというコーヒーの葉の病気により農園は打撃を受けました。コーヒーの枯死のため、農民は茶の生産と栽培に切り替えました。茶の実験的な栽培は1839年にキャンディに近いペーラデニアの植物園ですでに始まっていました。東インド会社を通じてアッサムとカルカッタから入ってきていたのです。商業栽培は1867年にセイロンで始まりました。 セイロンティーの父スコットランド人のジェームズ・テイラー(1835~1892)はセイロンティーの発展において重要な役割を果たしました。生来の完璧主義者だったテイラーは、紅茶から最高の風味を引き出すための茶の栽培と葉の加工を試みました。他の栽培業者はテイラーのやり方を模倣し、まもなくセイロンティーはロンドンの買取業者に好意的に受け入れられ、紅茶が利益になる農産物であることを証明しました。1872年に最初の公式なセイロンティーが23パウンドの包み2つでイングランドへ送られました。しかし記録に残る最初の出荷はThe Duke of Argyll号により1877年に行われています。1880年代までにはセイロンのほぼすべてのコーヒー農園が紅茶に切り替わりました。英国の栽培業者は東インド会社とアッサム社の栽培業者を栽培の指南役として当てにしていました。コーヒー店は需要に応えるべく急速に製茶工場へと変貌しました。 |
セイロンティーの特徴モンスーンと標高『セイロン』とはスリランカの旧国名で『セイロンティー』はスリランカの紅茶のことを指します。スリランカはインド洋に浮かぶ島国で面積は北海道より一回り小さいほどです。世界有数の紅茶の産地として知られ、紅茶に適した気候と風土が良質な茶葉を生み出し輸出量は世界1、2位という生産量を誇ります。その一旦を担うのがインド洋から吹き付ける2つのモンスーンです。北東モンスーン(11〜2月貿易風)と南西モンスーン(5~9月偏西風)により、島の中央山岳地帯を挟んで両側に雨季と乾季をもたらすため、茶葉の生産は一年を通して行われます。さらに現在では『セイロン・セブン・カインズ』と呼ばれる7つの産地があり、標高によってハイグロウンティー、ミディアムグロウンティー、ロウグロウンティーと分けられています。このように気候や標高の違いが産地ごとに異なる風味の茶葉を作り出し、それがセイロンティーの魅力にもなっています。 High Grown Tea ハイグロウン(高地産) 標高約1,300m以上・・・ヌワラエリヤ、ウダプッセラーワ、ウバ、ディンブラ |
セイロンティーの産地CEYLON SEVEN KINDSNUWARA ELIYADelicately fragrant
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セイロンティーの等級(グレード)Orange Pekoe芯芽の次に若いフルリーフを細長くねじった茶葉。産地の違いに応じて様々な特徴を持つ。 Broken Orange PekoeOrangePekoeを細かくカットし、味、香り、濃さのバランスが良い最もポピュラーなサイズ。 Broken Orange Pekoe.1低山地で採れる茶葉が大部分を占めねじれたセミリーフでマイルドなモルトテイスト。 B.O.P.FanningsBroken Orange Pekoeをさらに細かくしたもの。味も濃さも強くミルクティー向き。 Flowery B.O.P一番先端にある芯芽(チップ)が多く含まれる茶葉。葉っぱになる前の柔らかな部分が混ざることによって紅茶の味わいがまろやかになる。 Flowery B.O.P.1Flowery B.O.Pタイプよりさらに芯芽(チップ)を多く含んだ良質な茶葉とされる。 Flowery PekoePEKOEタイプの茶葉に芯芽(チップ)が多く含まれている。FはFloweryの略で花のような香りを意味する。 PekoeOrangePekoeの下にあるしっかり成長した葉をカールさせた繊細なライトタイプ。 |
紅茶ができるまでオーソドックス製法“Plucking”|摘採・・・茶摘みのこと。一本の茎に若葉2枚と新芽という、一芯ニ葉で行われる。 “Withering” “Rolling” “Roll-breaking””Green-Shifting” |